ふるさと越波
~たった2人だけの集落~
岐阜県と福井県の県境、岐阜県本巣市根尾地域の最北部に位置する越波(おっぱ)集落。1350年前から続く歴史ある集落です。
かつての生業は、夏は林業や炭焼きで、冬は炭俵や藁草履を作って生計を立てていました。
1950(昭和25)年には人口が236人いましたが、1959年の伊勢湾台風、1965年の降雨量950mを超える集中豪雨で山が崩れて陸の孤島になるなどの被害があり、これがきっかけとなり多くの住民が集団離村した経緯があります。
現在はたった2人だけが住民登録をしている状態です。(2014年9月末時点)
しかし、2009年頃から越波集落出身者有志が協力して、廃校になった校舎を改修して集会所にしたり、年2回の情報誌を創刊したりと積極的に活動を行っています。
越波について
伏見帝正応2年(1287年)夏、地震により大きな山津波(土石流)が発生した。その山津波が川付近にあった越波集落を飲み込みそうになった。その時、突然白髪の老翁が現れて「持っている経典を水中に投げよ。」と、願養寺の寺主に忠告した。寺主はすぐに経典を水中に投げると、山津波の水量は減って人家などに全く被害はなかった。
この時、中央の低い山嶺を波が越えていったことから、以後「越波村」と呼ばれている。
越波集落は白鳳以前に出来て、最初は頭矢村といって川河内谷に在り、それが紙屋村に変わり、雪害にあい落合付近へ移住し、水難によって越波村となり、その後、現在の地に移った。
越波の由来
・昭和25年(1950年): 38戸/236人
【昭和34年(1959年)伊勢湾台風による被害】
・昭和35年(1960年): 39戸/179人
【昭和40年(1965年)集中豪雨による被害】
・昭和45年(1970年): 16戸/36人
・昭和50年(1975年):17戸/32人
・昭和55年(1980年):19戸/33人
・昭和60年(1985年):13戸/23人
・平成元年(1989年):9戸/11人
・平成5年(1993年):6戸/6人
・平成10年(1998年):3戸/3人
・平成15年(2003年):2戸/2人
・平成20年(2008年):1戸/1人
・平成26年(2014年):1戸/2人
越波の戸数・人口推移
【 4月 】
越波集落へ続く折越林道が雪解けのため、通行止めが解除される。
(※例年4月中頃~)
【 5月 】
春祭礼が行われる。越波集落出身者も帰ってきて、八幡神社で参拝をした後、拝殿に移動して懇話会が行われる。
【 7月 】
墓地清掃が行われる。
【 8月 】
クリーン作戦’(清掃活動)が行われる。越波集落出身者も帰ってきて神社、寺、道路、河川等の清掃をする。またお盆の時期には、夏祭礼が行われる。越波集落出身者も帰ってきて、八幡神社で参拝をした後、拝殿に移動して懇話会が行われる。それぞれで墓参りもする。
【 10月 】
秋祭礼が行われる。越波集落出身者も帰ってきて、八幡神社で参拝をした後、拝殿に移動して懇話会が行われる。
【 12月 】
越波集落へ続く折越林道が積雪のため、通行止めとなる。
(※例年12月中頃~4月中頃まで)
越波の年間行事
【 林業 】
昔、村人は雑木林に入って、その雑木を長さ70cmくらいに切って燃料用の薪を作った。これを「段木(だんぎ)」とも「つだ」ともいいった。明治の終わりからは炭焼きが始まり、また越前方面からは木地屋が入り、椀木地を生産するようになった。同時に、木挽きも盛んになって、栃の大木が床板などに挽かれて多く出されるようになった。
【 和紙 】
越波の願養寺に残る文書によると、「白鳳2年(662年)に釈了諦法師海蔵院が願養寺を創建し、手漉紙の製法を伝えた。当時は越波村が頭矢村と言われたころで、紙漉きを始めたことにより、「紙屋村」と称するようになった。」とある。これが根尾村における紙漉きの始まりだとすると、1,000年余りになる。
【 養蚕 】
根尾の村々でも、大昔から養蚕が営まれていて、寛永13年(1636年)根尾筋が大垣藩になると、毎年、藩へ真綿を紙などと共に年貢として納められており、江戸末期の養蚕は農家婦人の唯一の現金収入であった。
【 椎茸 】
椎茸は、昔より少しずつ自家用程度に栽培はされていた。昭和33年(1958年)根尾の森林組合が希望者を募り、先進地での実地の指導を受けたことが契機となり、一時は根尾の村々で盛んになった。しかし、高額の労賃が災いしてか、次第に生産が低下していってしまった。
越波のかつての産業
明治5年、学制の領布以前から越波村でも寺子屋教育が行われ、志があり家庭で許される者だけが、願養寺で読み書きを習っていた。その当時の教科書は「村づけ」、「名がしら」と言われている。
【 小学校の沿革 】
越波分教場は、明治7年(1874年)3月より横井本之助の土倉を借り受けて授業を行ってきたのであるが、その後、児童数が増えたために明治12年(1879年)12月に校舎を新築した。最初は黒津・越波の2区独立の小学校であったが、明治37年(1904年)3月西根尾・中根尾・東根尾が合併して根尾村となり、ともに根尾村立となった。
そして地理的条件から黒津小学校を本校とし、越波・大河原小学校をそれぞれ黒津小学校の分教場とした。昭和22年(1947年)4月校名を村立黒津小学校と改称、さらに根尾中学校発足と共に黒津・越波・大河原各分校に中学校の分校を1学級ずつおく。
昭和45年(1969年)3月には過疎化現象がピークに達し、黒津小学校は閉鎖となった。この年の4月からは、越波分校のみ村内長嶺小学校越波分校として新発足した。
昭和46年(1970年)4月能郷分校は冬季分校となり、黒津分校は一時閉鎖する。昭和47年(1971年)5月、長嶺小学校をへき地学校1級、越波分校をへき地学校4級と指定される。そして、昭和56年(1981年)村内長嶺小学校越波分校は閉鎖となった。
【 中学校の沿革 】
昭和22年(1947年)4月、新学生の実施に伴い村内に村立根尾中学校一校を創設する。昭和35年(1960年)4月には諸般の事情から、根尾中学校黒津・越波・大河原分校が根尾中学校から分離し黒津中学校として、独立して発足する。その後、昭和40年(1965年)10月、黒津中学校と大須中学校は根尾中学校に統合された。
越波の学校
【 風水害 】
昭和34年(1959年)8月13日、台風14号により、根尾川は大洪水となり各所の堤防、用水路に大きな被害を受けた、越波・大須の橋の流失被害損額は1億円を超したという。
同年9月26日、台風15号(伊勢湾台風)により、根尾村においても数十年以来の大洪水となり、奥地の道路は寸断されて交通不能となり、大須・越波などは陸の孤島となる大被害を受けた。
昭和40年(1965年)9月15日の集中豪雨は、揖斐郡の山間部から根尾村にかけての狭いエリアに総降雨量950ミリという記録的な大雨が降り、大きな被害をもたらした。
伊勢湾台風に続いてのこの大被害は、奥地の住民に大きなショックと不安を与え、大河原を始め、越波・黒津・大須などの住民が故郷を離れて村外へ転出する大きなきっかけの一つになったと言われている。
【 雪害 】
昔から、根尾村は豪雪地帯として知られ、毎年冬になると、2メートル近い雪が降り、村人の生活に大きな影響を与えてきた。昭和55年(1980年)1月23日の岐阜日日新聞に「越波地区など孤立 17年振りに大雪の根尾村」と新聞に掲載された。